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城崎温泉の町並み(子供達に語り継ぐ…)

2008.05.23|その他徒然に・・・

毎年のことでありますが、5月23日の朝、私は子供達に対してやたら饒舌になります。
なぜならば、大正14年の今日5月23日の午前11時10分にマグニチュード6.8の大地震(北但大震災)が発生し、城崎温泉はそのほとんどが廃墟と化し、我が家の先祖も4名が亡くなったからであります。
もちろんこの地震は城崎町にとって最大最悪の出来事でした。ただし、これをきっかけとして復興が始まり、まちづくりがあり、現在の城崎温泉の町並みができたのでした。
私は眠気の覚めやらない子供達に対して、知ったかぶりの語り部になり、城崎温泉の震災復興の話をしゃべり立てるのでありました。

例えばこんなこと…
●当時、復興の先頭に立った西村佐兵衛町長の復興演説「この地に 湯が湧き出る限り、子供達の歓声が聞こえる限り、城崎町は必ず 発展する!」が町民に元気を与えたこと。
●復興の手始めは元の場所に元の外湯を建てるということから。ゼ ロからの出発にあたり、外湯の復旧という道を選んだということ。(共存共栄の精神)
●交通の悪い片田舎でありながら、現在の町並みの形成には中央の高水準の知識や技術の導入されたこと。例えば、一の湯やまんだら湯は東京銀座歌舞伎座やお茶の水ニコライ堂を設計した早稲田の岡田信一郎氏によるもの。また、鴻の湯や地蔵湯の設計は京都大学の西山卯三氏によるもの等。
●道幅の狭さが地震後の火災による被害を広げたことから、地主は所有地の1割を無償提供して道路や河川の拡張に協力したこと。
●震災前は川の水面と道路との高さが数cmの違いしか無かったことから、水害に備えて道路全体を盛り土して最大3mも道路を高くし、その道路の石垣を玄武岩にしたことから現在の柳並木と太鼓橋の川沿いが出来上がったこと。
●火災による類焼を防ぐために防火区画が作られ、木造3階建ての建物が並ぶ中、実は要所要所に鉄筋コンクリートの建物が建てられていること。例えばそれは城崎小学校であり、公民館であり、一の湯であり、町役場等々であったこと。今ではどれも当時の建物は残っていないが、どれをとっても木造の町並みにうまく溶け込みそんな理由があったことなど今となっては知る人は少ないのであります。



毎年5月23日は、全町挙げて大規模な消防訓練を行います。そして、その後に慰霊塔に参拝いたします。
震災で亡くなった先人の霊を慰めると共に、復興にあたった先人の勇気と知恵に深く深く感謝し頭(こうべ)を垂れるのでありました。

(慰霊塔の参拝風景は昨年のものです)