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あの時を忘れない為に…

2007.01.17|その他徒然に・・・

地震に遭われた方々のことを想うと、「私たちがあの時何をしていたか?」などということを語ることは非常にはばかられることと思われ、これまではあまり公にはして参りませんでした。
しかしながら、今日の朝刊を読んでいますと、震災以後の神戸市の新生や転入者は全体の3割を超えたとのこと。年月の経過によって記憶が薄れていくことはいたしかたのないこととはいえ、語り継いでいく必要は必ずあるものと思うのも事実であります。
特に、震災の直接的な当事者ではない私たちの「あの時」などというものは、本当に薄れていく一方なのであります。当たり前のことですが、私も、私の周りの人たちも、みんな12才も歳をとったわけなのですから…。 あの時、城崎の人々を突き動かしたのは、「城崎の復興は神戸の人々に助けられたお陰…」というものでした。城崎温泉は大正14年に起こった北但大震災により壊滅し、今の町並みはその後の復興によるものなのですが、その復興の手助けをしてくれたのは神戸をはじめとした阪神間の人々であった、というのであります。
我々の先輩連中の動き出しはとにかく早く、地震のあった17日には非公式の会議を開き、18日には“救援隊”として既にサイレン鳴りやまぬ神戸の地に立っていたのでありました。通常では片道3時間程度の道のりも、地震のダメージと混乱によりそうそう立ち入れる地域では無かったのですが、城崎警察署のパトカーの先導により戒厳令下の街に入って行ったのでした。私は只々戸惑いばかりが先行し、とにかく先輩方に引きずられるままに付いていったと記憶しています。 救援活動には、人力、財力、企画力、判断力、機動力、その他諸々のいろいろな力が必要でした。震災以後、城崎温泉への客足はパタリと止まり、混乱と不安が終始つきまといましたが、結果としては春4月まで救援活動を続けました。とにかく我々としても異常な状況な中での異常な行動でありました。いろんな立場、いろんな意見、いろんな状況が交錯し、とにかく平穏ではなかったことを記憶しています。 実は当時、私は救援活動の事務を担当していました。
やはり、あったことは留めておくべきと考え、後になってからネット上に備忘録を記しておきました(紙の資料では結局は埋もれてしまうと考えてのことです)。
救援活動に携わった人、それぞれに“思い”がある為に、私的感想は敢えて記載しておりません。あったことを淡々と記しているだけのものですが、それぞれの記憶を甦らせる当時の足跡として使っていただければ幸いに思うのであります。 城崎温泉/阪神淡路大震災被災者救援に関する事業報告 ]]>